アンリ・マティス色づかいの天才。その2。マティスとピカソ、巨匠の二人。

アンリ・マティス色づかいの天才。その2。マティスとピカソ、巨匠の二人。

マティスとピカソはどんな関係?

アンリ・マティス《石膏像のある静物》

アンリ・マティス《石膏像のある静物》(1916年)

この作品に反応したピカソの作品《静物 胸像、パレット》が1933年に発表されています。(ピカソは著作権がまだ生きてますので。画像なしです。)

今回は、アンリ・マティスとパブロ・ピカソとの関係性について考えて行こうと思います。二人ともアートの世界においてはスーパースターですからね。

二人は、よくライバルと言われます。もちろん画家同士ですから、お互い負けないぞ!という気持ちはあったでしょうけれど、二人の間には、ライバルというだけではない気持ちがあったと言われてます。

ピカソの愛人で画家でもあったフランソワーズ・ジロー(ピカソの愛人のなかで唯一自分も画家として貫き通した女性)の著書「マティスとピカソ」によると、ふたりは1905年に初めて対面したとのことです。(フランソワーズ・ジロー著「マティスとピカソ」、河出書房親書、2000年、55p)

この時のマティス36歳、ピカソ24歳。マティスの方が12歳年上ということもあって、ピカソは大変マティスに敬意を払っていました。

しかしながら、ふたりは対称的でマティスは博学で、もともと法律学校で勉強していたこともあって話し上手。

反対にピカソは勉強嫌い。学校を飛び出して絵の勉強をはじめましたからね。

また、ピカソは青年時代ということもあって、かなり内気であまり話さない人でした。スペインからパリへ来たこともあり、あまり流暢なフランス語を話せなかった事も原因だったと言われています。

ピカソのマティスへの気の使い方が分かるエピソードが、フランソワーズ・ジローの本に記されています。

それによると、マティスに電話をするときも、電話をしていいかな、今はやめておいたほうがいいかなと、フランソワーズに尋ねたりしていたそうです。

気は使っているけれども、ピカソは、友人(マティス)に会うのを楽しみしていて、少しヒステリックなところがあったピカソもマティスに会うときは、かなりご機嫌だったようです。

一度などは、体調の悪いマティスを元気付けようと、手品の得意な知り合いを連れて行き、マティスも大喜びだったこともあったそうです。(フランソワーズ・ジロー著「マティスとピカソ」、河出書房親書、2000年、84−85p)。

この二人の巨匠は、もちろん芸術家同士ですから、絵の技術的な考え方や互いの作品について語りあうのが普通で、時には意見が対立しお互いゆずらないことも起きていましたが、喧嘩別れすることなく友人関係はずっと続きました。

この間、何度も作品を交換し合うことでお互いの技術や考え方を理解していったこともわかっています。 

ちなみに、マティスもピカソも他人の展覧会に行くことはありませんでしたが(特にマティスは自分のも見に行かなかった)、お互いの展覧会だけは、こっそり見にいっていたとうエピソードもあります。

仮に行けなくとも、どんな展覧会かは気にして親しい人に内容を細かく聞いていたということです。

 

反応し合うこと

長い二人の関係の中では、絵の交換や互いの作品を見るうちに、それに対する反応やその作品への返答、相手の技法を試して見るということも行っていました。

それは、もちろん手紙という形もありましたが、ふたりともに画家ですから絵を描くことでお互いの考えを理解しあったこともかなりの回数ありました。 

アンリ・マティス《生きる喜び》

アンリ・マティス《生きる喜び》(1905~1906年) この絵の中心部に輪になって踊る人たちは、のちにアンリ・マティス の代表作となる《ダンス》へとつながっていきました。また、ピカソは、この《生きる喜び》に衝撃を受け代表作《アヴィニヨンの娘たち》を描いたとも言われています。

 

アンリ・マティス 《ダンスⅡ》 

アンリ・マティス《ダンスⅡ》(1910年) マティスもピカソも、非西欧圏の彫刻や写真集などをもとに、西欧から見た”原始性”を求めた作品多く作っています。

 

アンリ・マティス《夢》

アンリ・マティス《夢》(1940年)これはピカソの《黄色い髪の女》(1931年)の作品に、自分のルーマニアのブラウスシリーズを取り入れた作品。ピカソの作品は、ポーズは同じで服の柄、髪色がなどが違います。

マティスの晩年 

アンリ・マティス《ジャズシリーズ サーカス》

アンリ・マティス 《サーカス》ジャズシリーズの中のひとつ。このジャズは、本として作品化されたもので、1940年代に入って体調が悪くなり車いすの生活を送る中で、取り組んだ技法。助手が紙に色を塗って、それをマティスがハサミで切り絵にしていきました。

実は、ピカソもベッドに伏している旧友を訪問したときに、目の前で切り絵をつくってもらいそれを譲りうけて大喜びしたというエピソードも残っています。

目の前でマティスが切り絵を自分のために作ってくれたら、それは嬉しいことですよね。

それは無理ですので、マティスの作品がデザインされたアート傘を生活の一部に取り入れてみませんか?傘の色がとても華やかですのでおすすめです。

 

 

マティスが与えた影響とは?

マティス自身は、ゴッホやシニャック、モネ、セザンヌ、ピカソなど多くの人たちから影響うけ自分のスタイルを磨いてきました。

しかしマティス本人は、若い人たちに影響与えることには少し否定的だったようです。

とはいうものの、マティスの支援者だった2人のロシア人(もちろんお金持ちでしたが、革命ですべてを失った)は、手に入れたマティスの作品をどんどんロシアの若い画家達に見せ、研究させていたようです。

ロシア・アヴァンギャルド(美術ファンなら聞いたことある言葉だと思います)というロシア美術・デザインの動きにも影響が全くないとは言えないでしょね。

いかがでしたか?アンリ・マティスとパブロ・ピカソの巨匠ふたりの関係を少しだけ紹介してきました。興味持っていただけたでしょうか?

巨匠ふたりが作品で会話してなんて面白いなと思います。

興味持っていだだいたら、かさたびでアート傘のラインナップを見てください。もちろん、マティスの傘もあります。ピカソは著作権がまだ切れてないのでありませんけれど・・・。

美術検定1級アートナビゲーター持っているスタッフより

 

 

 

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