アンリ・マティス、色づかいの天才。情報追記しました。

アンリ・マティス、色づかいの天才。情報追記しました。

アンリ・マティスとは?

マティスの絵って何を思い浮かべますか?

緑の鼻筋、赤やピンクの窓枠、青や黄や緑の背景などの作品を思い出す人多いのではないでしょうか。

アンリ・マティスは、19世紀後半から20世紀半ばまで活躍した巨匠中の巨匠です。西洋美術を勉強すると必ず出てくる画家ですね。美術検定受ける人なら必ず覚えるでしょう。

2023年のゴールデンウィークから8月まで、日本ではおよそ20年ぶりとなる大回顧展が東京都美術館で開かれ30万人以上の人が訪れました。

このブログを書いている私も仕事の合間を縫って行きました。思っていた以上に大盛況の展覧会!

会場の展示は、アンリ・マティスの画業を追って紹介していく構成で、最後はヴァンス・ロザリオ礼拝堂の展示物と映像(この展示コーナーがとても混んでいましたね)で終了。

晩年の切り絵の作品では、女性客から「かわいい」という声が多数聞こえてきて、そういう感想もあるんだなと改めて、人の感じ方の多様性というものに気付いた次第です。

グッズ売り場も順番待ちの状態で図録だけ、さっと購入して帰った記憶が残っています。

では本題に入って行きしょう。マティスは”鮮やかな色づかい”の絵画しか描かなたっかのか。どうでしょう。

まずは彼が、どんな人だったのかを見て行きましょう。

アンリ・マティスの画像

 アンリ・マティスは、1869年北フランス生まれ1954年84歳で亡くなる直前まで作品を作り続けていた画家です。

よくパブロ・ピカソのライバルとも言われており(実は、ライバルでもあり熱い友情に結ばれてもいました)巨匠中の巨匠。

日本では、美術ファン以外だと、ピカソほど知名度はないかもしれませんが、19世紀末以降のモダンアートのスーパースターです(ピカソより10歳くらい年上です)。

マティスが巨匠中の巨匠だと言うと、子供の頃からすごく絵が上手で若くして成功を収めた印象を持つかもしれませんが、結構、遅咲きの画家だったのです。

画家として注目を集め始めたのは36歳くらいになってからのことです。その頃はまだかなり貧しかったようです。

画家を目指すまえは、親の勧めもあり法律関連の仕事についていましたが、あまり体の強くなかったマティスは病気で1年入院、この時に絵を描きはじめ、やがて画家の道へ進もうと決めました。

その後は、美術学校で勉強しようとしますが、なかなか学校に認めて貰えず困っていたところ、ギュスターブ・モロー(西洋美術史ではずせない画家)の教室に通い指導をうけます。

モローの教室は自由なスタイルで美術と親しむことを教え何人もの有名な画家を出しています。いい先生との出会いってほんとに重要ですね。昔も今も。。

そこで、生涯の友人となったジョルジュ・ルオーなどと知り合い、自分のスタイルを探究して行く事になります。

アンリ・マティス《読書する女性》

《読書する女性》(1896年)フランス国家が買い上げた作品。国が開催する展覧会に出品した作品のうちの一つでした。

 

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マティス、迷いのスタイルから色彩の魔術師へ。

アンリ・マティスと調べてみるとよく「フォービズム(野獣派)」なんて書かれていることが多いです。しかし、実際は一つの作風に留まらなかった画家です。

古典的な描きかたから始まり、ゴッホなどの後期印象派を勉強したり、はたまた点描(絵の具で点々を打っていく方法)を試してみたり。

そして原色を使った色で画面を構成していくフォービズム(野獣派)に至り、そこからピカソなどが主導したキュビズムに影響され、またフォービズム的作風、最後は切り絵と生涯にわたり画風が変化しました。

このようにマティスが影響を受けたアーティストは、ギュスターブ・モロー、フィンセント・ヴァン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌ、ポール・シニャック、ピカソといった名前が挙げられます。

マティスがのちに「色彩の魔術師」と呼ばれるきっかけ、ポイントとなったのは、点描(でんびょう)での制作です。

最初は自分でやってみたようですが、やはり、その道のプロの助言を得た方がよいと、点描の描き方を磨き上げたポール・シニャックに教わります。これが大胆な色づかいの作風へと変わっていくキッカケになりました。

アンリ・マティス《豪奢・静寂・逸楽》

《豪奢・静寂・逸楽》(1904~1905年)セザンヌ水浴図からの影響もある作品。

シニャックから色彩についての学びを得たマティスは、自分のスタイルとも言える鮮やかな色で画面の構成し平面的な作風を生み出し発表します。(点描は辞めちゃった。せっかく教えたシニャック激おこ)。

すると、批評家が原色使いで荒いタッチの絵を見てマティスらのグループを”フォービズム”(野獣派)と名付けたのです。

決して褒めた訳ではありませんが、良くも悪くも話題となり、マティスの名前は知られていくようになりました。36歳ごろのことです。

アンリ・マティス《緑のすじのあるマティス夫人の肖像》

《緑のすじのあるマティス夫人の肖像》(1905年)

マティスは、フォービズム(野獣派)と呼ばれることを最初は歓迎していましたが、後にあまり好きではなかったと告白しています。(野獣と呼ばれるほど荒々しくもないですよね。私見ですけど。)

それは、マティスが何度も何度も描き直していく制作方法をとっていたからです。一見すると、ささっと描いているようですが、かなり試行錯誤しながら絵の構成を考えて描かれているのです。

 

 アンリ・マティス《開いた窓》

《開いた窓》(1905年)旅で訪れた地中海沿岸のコリウールという場所で描かれた絵。この作品も豊かな色彩が画面を覆っていますね。コリウールでは、他にも作品が制作され、そのうちの一つがかさたびのアート傘のデザインになっています。 

 

 

このアート傘にデザインされている《コリウールの屋根》(1905年)は、現在では、ロシアのエルミタージュ美術館に納められていますエルミタージュ美術館は、マティスの作品を30数点も所蔵しているのです。

これは当時のマティスの大きなお客さんが、ふたりのロシア人美術コレクターであったことが関係しています。

マティスはフランス人ですけれど、このふたりのロシア人コレクターがマティスの作品を集め、それをロシア人アーティストたちは見ルコとで、マティスの研究をし、自分たちの作品に取り入れていったのです。

そうこうしているうちに世の中に大変革が訪れます。1914年に第一次世界大戦がはじまり、その最中、ロシア革命が起き、ロシアは共産主義のソ連となりました。

ソ連では私有財産が国有化されました。マティスのパトロン・支援者であったふたりの美術品も没収され、それらの作品がエルミタージュ美術館へ収められたのです。

アートの流れを追っていくといつ間にか世界の歴史にも触れていくのが面白いところなんです。

エルミタージュ美術館に保存されているアンリ・マティスの作品をじかに見る機会は、なかなか無いかもしれませんが、それをデザインしたアート傘ならいつでも身近に置いておけます。

マティスの《コリウールの屋根》をデザインしたアート傘はとても華やかな傘の色をしていますし、他のアート傘にはゴッホやモネ、ミュシャ、ボタニカルアートなど種類もたくさんありますので、一度こちらをチェックしてくださいね

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「追記情報」

2024年2月14日から国立新美術館を会場に「マティス自由なフォルム」展が開催されます。

この展覧会では、マティスが人生の後半で精力的に制作していた「切り絵」を中心に据え、版画、彫刻なども展示します。

中でもマティス美術館所蔵の《ブルー・ヌードルⅣ》が公開されるほか、この展示のために修復を行った《花と果実》が日本初公開となります。

美術検定1級アートナビゲーター持ってるスタッフより

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