大阪府堺市にあるアルフォンス・ミュシャ館へ再訪問。ちょっとだけグッズも紹介。

大阪府堺市にあるアルフォンス・ミュシャ館へ再訪問。ちょっとだけグッズも紹介。

ミュシャは画塾の先生だった。

アルフォンス・ミュシャ館「ミュシャとパリの画塾」

大阪府堺市にあるアルフォンス・ミュシャ館で3月31日まで開催中の企画展「ミュシャとパリの画塾」を観に行ってきました。

今回の展示は、絵の先生としてのミュシャに迫る、とあるのでどのような内容になるのか、加えて当時の日本人留学生と交流の内容も展示に含まれるというので、日本とミュシャの関係も気になるところでした。

アルフォンス・ミュシャ館へはJR堺市駅から陸橋を歩いて3分ほどで到着します。陸橋の柱には、下の画像のようなサインがたくさん貼ってあり、気分を盛り上げてくれるんです。当然、ちょっと早歩き気味に。

堺市駅からミュシャ館までのサイン

 ミュシャは、ポスター制作で一夜にして有名になったというイメージもありますが、彼自身の絵の勉強のお話、絵の先生をしていたことは、あまり知らないなぁと思いながら会場へ。

まず展示会場に入ると、ミュシャの先生であったフランス最後の歴史画家ジャン=ポール・ローランス、裸婦像に外の光を当てた絵画で有名なラファエル・コランの作品が展示されてました。

ミュシャの作品からは想像できなかったのですが、かなりアカデミックな画家を先生として勉強していたんですね。最後の歴史画家の人とかね。

 

さて、画家を目指していたミュシャは19歳の時に、プラハの美術学校を受験しますが不合格。そのため舞台装置の工房で働きながら絵の勉強を始めました。

舞台装置の工房ですから、きっとステージで使用する大きな背景とか、場面に合わせた街角、野原なんかを描いていたんでしょうね。親方みたいな人がいて、「あれやっとけよ」みたいな世界を思い浮かべてしまいました。

そしてミュシャは27歳でパリの街に立ちます。ちょっと遅い気もするんですが、後のサラ・ベルナールとの縁を考えると良いタイミングだったんでしょうね。

 パリで、絵の修行をしようと思っっていたミュシャでしたが、19世紀末で一番権威のあったフランスの国立美術学校に入学を希望するも、外国人は学ぶことができず門前払い。

当時、パリにはたくさんの外国人がやって来ていました。

なぜなら19世紀後半からのパリでは5回ほど万博が開催され、さまざまな情報が集まり、人も集まる都市だったのです。色々な文化が集まることで、20世紀初頭まで世界の芸術の中心地となっていました。

(余談ですが、第一次世界大戦後の1920年代にパリは芸術の都として最盛期を迎えますが、第二次世界大戦後その中心はアメリカのニューヨークに移ります。)

そこで、授業料さえ払えば外国人でも美術を学べる私立の画塾が人気となったのです。その場には、ヨーロッパだけでなくアメリカ、日本からの留学生も通っていました。

ミュシャはそこで絵画の腕を磨き、挿絵の仕事を始めることとなりました。

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ミュシャの画塾

 ミュシャが画塾の先生を担当し始めたのは、挿絵の仕事が軌道に乗り始めてからと言われています。今で言うところのセカンドビジネスってやつですね。

ちょっとカタログから引用させていただきます

〜アトリエ・ミュシャ装飾美術構図講座 規定・日時・料金

構図コースは、8月1日から10月1日までの休暇期間を除き一年中受講可能です。

平日午前8時から正午まで、夏期は午後1時から5時までです。

火曜、木曜、土曜の午後は、女性専用となっております。

男性、月額登録料100フラン

女性、月額登録料50フラン・・・席数には限りがございますのでいますぐご登録ください〜(引用1)

現代の募集チラシの文言と変わらないですね。特に席数に限りがございますの部分なんて。

このミュシャの画塾の特徴は、女性も入塾OKというところ。女性はダメという画塾も多かったそうです。また、裸のモデルのデッサンも行っていたので、男性クラスと女性クラスをきちんと分けて運営していたという点も特徴として指摘されています。

ミュシャは面倒見が良くて、生徒からの評判のよかったようです。真面目で制作することが大好きな人ですから、きっと生徒思いの熱い先生だったのでしょう。

 ミュシャの下絵と出来上がりを比べた画像

展示されてたものは撮影できなかったので、カタログを撮ってみました。こうしてみると、ミュシャは下絵の段階でしっかりと体を描いてから制作したことがよくわかります。(ちなみにシャンパンの広告のようです。)

いろんなポーズの裸のモデルを描くことで変化していく肉体の線を学ぶ大切さを知っているからこそ、画塾でも男女のクラスを分けてまで絵を教えていたのだと筆者は感じました。

 

教師としての言葉と日本人留学生との交流

会場には、画塾の先生として、生徒への言葉もいくつか展示されていました。

ひとつふたつ引用しておきます。

〜「あらゆる自然物から自分の特別な用途のためのアイデアを見出すのです」〜(引用2)

「人や動物の体のフォルムが詠みあげる素晴らしい詩、そして花、葉、果実の線や色が奏でる音楽。これらは私たちの審美眼を鍛えてくれる、これ以上ない教育者なのです」〜(引用3) 

 

 (引用1、2、3、企画展「ミュシャとパリの画塾」、執筆 高原茉莉奈、公益財団法人堺市文化振興財団 堺アルフォンス・ミュシャ館、2023年)

 

 どちらも、ミュシャの作品を支える土台になっている言葉ですね。彼の作品、そのもののことと言っていいでしょう。

それを惜しげもなく、画塾の生徒たちに話すミュシャは、上手な絵の描き方を教えるのではなくて、美術との向き合い方を教えている。そんな気がしました。

こういう考え方は、現代のアートにも通ずる考え方であって、技術の進歩によってアートが絵画、彫刻、コンセプチュアルアート、インスタレーション、メディアアートなど、さまざまな表現方法を生み出しながらも、根本的には、昔と変わらず観察・気づき・思考よって支えられているということに繋がると個人的には思います。

 

さて、ミュシャは、パリに留学中だった日本人5名とも接点があり絵を教えたといいます。

絵が悪いと半分くらいミュシャ自身が描き直したり、輪郭線について熱く語ったりしたそうです。

曲線を多用した装飾の豊かな作風から感じる柔らかい印象の人物像と違い、画塾の先生としてのミュシャは、熱い信念を持った教育者なんだなと感じました。

作品ではわからない作家の姿を感じる展示であったと思います。

少し面白いコーナーもあったので紹介しておきます。

 

ミュシャのフォントを自分なりになぞってみよう

というコーナーがありまして、ミュシャの作品に描かれている文字って結構独特だと思いませんか?その文字を色鉛筆で好きなように、なぞってみようとコーナーがありました。

ミュシャの作品に登場するさまざまな文字。それは文字であって絵の一部でありながらも、きちんと目立つように考えられている。画家の一面とデザイナーとしての一面を持つでありながら

ミュシャ独特の文字を自分でなぞるための素材用紙

ミュシャとパリの画塾」展は、大阪府堺市アルフォンス・ミュシャ館で3月31日まで開催中です。2月8日から展示内容が少し変わる予定です。

 

少しだけグッズを紹介

ミュシャとパリと画塾カタログ

 カタログ(600円)18ページで構成されたカタログです。展覧会の内容をざっとまとめたものでミュシャ言葉や画塾のチラシもしっかりと掲載されています。

 

ミュシャデザインのジュエリーが表紙になった一筆箋 

ミュシャの一筆箋(細長い便箋。この蛇のジュエリーはサラベルナールが舞台用にミュシャにデザインを頼んだもの。確か実際には使用されなかったはず。これが本物展示されてたんですが撮影禁止。そこでこちらを購入しました。440円)

 

ミュシャがデザインしたのビスケットパッケージのマルチケース 

マルチケース(マスクとチケットとかなんでも入れられるケース。ビスケットのパッケージデザインで、これも当時ミュシャのお仕事の一つ。才能豊かな人です。500円)

 

こちらのミュシャ館、規模は小さいのですがミュシャ好きな方にはおすすめのスポットです。もちろんミュシャのアート傘を持ってお出かけになってくださいね。

アルフォンス・ミュシャ館webサイト

美術検定1級所持スタッフより

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